今年も行って参りました、start to [ ]のバングラデシュツアー。
8/17~8/
今年のツアーの目玉は、何といっても小学校新校舎の完成
紆余曲折を経てやっと建ちあがった新校舎と対面した時に
今回のツアーにははじめてバングラデシュを訪れるメンバ
これまでもstart to [ ]を支えてくださったファンの皆様、「バングラデシュっ
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今年も行って参りました、start to [ ]のバングラデシュツアー。
8/17~8/
今年のツアーの目玉は、何といっても小学校新校舎の完成
紆余曲折を経てやっと建ちあがった新校舎と対面した時に
今回のツアーにははじめてバングラデシュを訪れるメンバ
これまでもstart to [ ]を支えてくださったファンの皆様、「バングラデシュっ
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start to [ ] がスタートしてから早3年が経ちました。
まさに光陰矢の如し。
当然のことながら、
いいことも悪いことも、いろいろなことがありました。
2012年は、立ち上げメンバー以外の新メンバーを迎え、
トークセッションの開催、
バングラデシュNGO省からの許認可、
現地小学校の建設開始、それに伴う雇用創出など、
数多くの嬉しいハイライトがありました。
現地をコーディネートしてくれている
我らがパートナーのSEEDOメンバーに、
この場を借りて(借りても読めないと思うけど)
御礼を言いたいです。いつもありがとう。
時間はかかるけれど、前に進む意志があれば、
それは実現できるということを
いくつも体験させてもらいました。
とてもありがたいことです。
「前に進む」というのは、
時として変化することが求められます。
僕らstart to [ ] のあり方も、前に進むごとに、
時間を経るごとに、そして現地とコンタクトするごとに、
少しずつ変わってきました。
自ら変化をしたこともあれば、
環境や状況によって
否応なく変化をせざるを得なかったことも
(当然ながら)あります。
『startする人をもっと増やせる私たちへ』
僕らが、今のところ至っているひとつの「あり方」の目標です。
当初は、バングラデシュをはじめとする発展途上にある国で
「子どもが夢を持って生きること」を目標にしていました。
そこから見ると、随分「変化」したように思います。
夢を描く前にやるべきこと(多くの場合、家のお手伝いや仕事)がたくさんあって、
将来が閉ざされてしまっている世界の子どもたちと同様に、
日本人でも何かできるんじゃないかと思ってはいるものの、
はじめの一歩をどこに踏み出せばいいか
分からずにいる人に対しても、
何かできることがあるのではないか、と思い始めた最近です
(このあたりは、毎回のトークセッション事業から多くを学びました)。
もっともっと多くの人たちが start line に立てたら素敵じゃないか。
もっともっと多くの人たちが、自分自身の [ ] を見つけたら、
その人自身も社会ももっとよくなるのではないか。
そんなことを考えながら
2013年がはじまってからの4ヶ月を過ごしてきました。
ちょっと前置きが長くなりましたが、今回の発表会の主旨は3つです。
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前回までのお話しは、コチラを。
『アジア経済研究所』の図書館でいろいろと資料を探り、最終的に現地に行くことに決めたところからです。当時の自分に『どうですか?』とインタビューしてみたいところですが、正直なところ確信めいた自信はなかったように思います(そりゃそうです)。
でも、なんとなく、『何か』が動き出す予感がありました。
自分たちの手で動かそうとしているワクワク感や、自分たちの目で見ようとしているドキドキ感が入り交じって、何とも形容できない不思議な気持ちだったことを思い出します。僕はそれに加えてこのメンバーで行けることへの喜びもありました。
今思うと、このあたりから歯車がコチコチといろんなところで動き出していたように思います。それを全部動かすための残り1つのピースが自分たちだった、とでもいうように。今でも、よくその頃を振り返って、『Take action, Make miracle』と話しています。このエントリーでは少しずつ少しずつ歯車が動き出す、そのあたりのお話しを。
***
結局、まだ見ぬ土地には、共同代表の内山、関本、僕、そして、僕と10年前からバングラデシュのプロジェクトで苦楽を共にしてきた盟友笠原の4人でいくことになりました。
手がかりは、僕と笠原のバングラデシュでのほんのちょっとした経験(ローカルバスに乗れるとかレストランで注文できるとか)、内山の元同僚が首都ダッカで働いていること、その方がいろいろ手配してくれそうな現地業者を知っている、という3点のみでした。
ワクワクドキドキとは裏腹に、『ダッカまでは何とかなりそうだけど、現地行ったらどうしようっかなぁ…』という自問自答は心の中から出たり入ったりしていました。出発までに、何とか伝手を使って現地の誰かにアポを入れられるよう調整を試みましたが、最終的に調整できたのは『Star Hotel』という現地のエアコン付ホテルと、ダッカから現地へ向かう車の手配のみ。
でも、本当に不思議なのだけど、内山が現地業者に聞かれて『少しでも快適な方がよかろう』と日本で適当にエアコン付を選んでことこそが、実は現地のすべてのはじまりになることに。
やってみると扉は開かれるもの、startすることで自ら景色を変えることができる、というのは実は僕らもこの時に身をもって体感したことで、この時から『日本でもこういう話をたくさん伝えたい』と思うようになっていったのかもしれません。
Jamalpur(ジャマルプール)に到着した僕らは、当然行くあてもないので、まずは『Star Hotel』にチェックインすることにしました。向かう車中で話したいくつかの作戦は以下の3つ。
(1)現地NGOを突撃訪問してみる(代表的なBRACなど)
(2)同じくBRACが運営する現地手工芸品工場を突撃見学する
(3)こういう支援したいんだけど人を紹介してよ、言いまくる
作戦はほとんど『突撃』。
今思うと本当にアホみたいなのですが、作戦の話もそこそこに、車中の主題は僕の恋愛話だったような…(あぁ、なんてくだらない…ごめんなさい…)。
車を降りてチェックインすると、ホテルのオーナーが親しげに(そしてどこか緊張気味に)僕らに話しかけてきます。これはバングラデシュではどこにでもある風景で、僕は話半分で(実際はほとんど)聞き流していたのですが、なんだかよくわからないうちに、彼がガイドをしてくれることになりました。(こういうこともしょっちゅうあるし、正直面倒くさいパターンの方が多い、と思う)
その男の名は、Biplop(ビプロップ)。
英語はたどたどしいけど何とか会話になる。僕らの英語も理解していないようにみえるけど何となく理解してくれている。そして、よく笑う。
ロビーで話している時は予想だにしませんでしたが(ごめんなさいね、Biplop)、実は彼こそがstart to [ ]の道を開いてくれたその人と言っても過言ではありません。
内山が日本で『エアコンが付いてたから』という理由だけで手配した『Star Hotel』のオーナーは、現在の我々の現地パートナーであるSEEDO(シード)のコアメンバーの一人でした。
しかも、ベンガル人にしては奥ゆかしい彼は、僕らが日本から来たNGOで、バングラデシュの子どもの教育をサポートしたい、ということを知っていたにも関わらず、自分の団体を最後の最後まで押し出すことをしませんでした。彼は訪問先から出る度に『次は?』と僕らに聞いてくれて、僕らの行きたいところへ連れて行ってくれました。自分のホテルの仕事もほったらかして。
ひねくれ者の僕なんかは、もしかして最初に『奇跡!僕はSEEDOって団体やっててさ!』と猛烈に押して来られたら、それだけで『うーん。』と選択肢から外してしまったかもしれません。そういう意味では、彼の奥ゆかしさ(というのだろうか)は、大いに奏功したことになります。
Biplopと出会った翌々日には、Jamalpurに7つある行政区のうちのひとつMelandaha(メランダハ)という地域の区長の自宅で飯を食べていた我々。車中でぼーっとした時間が流れるたびに、誰かしらが『やっぱりやってみるもんだねぇ』とつぶやいていたような気がします。それくらい急速に、そして出来過ぎくらいにモノゴトが動いていったように思います。
でも、なんだろう、なんだかしっくりこなかったんですよね。
区長(名前忘れた…)に見せてもらった学校も、ほとんど廃れていて何らかのサポートが必要な感じでした。『やっぱりこれって運命だよね!ここでいいじゃん!』となっても不思議ではない土地にあった学校でした。それでも僕らはそうならなかった。誰一人として、『うん!』という感じにならなかった。
この時に我々4人に共通していた妙な違和感。
僕らはこの『言語化できない違和感』をとーっても大切にする傾向があって、その夜に日本から持ち込んだ酒を飲みながら(イスラムだからお酒はなかなかないのです)、悶々とあーでもない、こーでもないと語ったように思います。今にして思えば、『ここまで来たんだから何としてでも手土産を持って帰りたい』気持ちと、『たとえ何も持ち帰れなくても納得できる支援先を見つけたい』気持ちとで揺れていた時間だったのかもしれません。
次回は、この『妙な違和感』と、Biplopがいきなり明けたstart toの扉のお話しを。
では、またね。
こんにちは、共同代表の大野です。
前回までのお話しについては、コチラをご覧ください。
今日は『どうやって我々が最初の一歩を踏み出したのか』について書いてみようと思います。どうぞリラックスしてお楽しみください。
往々にして、モノゴトの最初の一歩は難しいものです。難しいし、大変です。『さぁ、やろう!』となってもまず何からはじめたらいいのかわからない。ホームページ? Twitterアカウント? Facebookページ? ついついSNSの方向に流れがちな昨今の状況もわかるのですが、そんなものを取ったところで書くことが何もないんですから意味がありません。笑
僕らの最初のアクションは『図書館に行く』でした。
バングラデシュの話で盛り上がりつつも、わずかな情報しかない我々としては現状把握が最も手っ取り早く、かつ最も必要なアクションでした。
『乳児死亡率が高い』、『識字率が低い』という情報(ネットで拾える情報も多々ありました)はあれど、それは本当に信頼できるのか、いったい何に基づいているのか、バングラデシュの中でも最も大変な地域はどこなのか、については全然わかりませんでした。
そこで、内山が大学院の論文執筆の際に使っていたというジェトロの『アジア経済研究所』の図書館へ行くことに決めました。
ちなみに、アジア経済研究所図書館の事業概要には、『開発途上国関連資料に関する世界屈指の専門図書館です。学術図書、統計書など各国の政府刊行物、新聞・雑誌、地図、国際機関の報告書等が豊富で、どなたでも無料でご利用になれます』とあり、まさに専門書籍やアジア各国の統計書、珍しい雑誌(例えばラオスのファッション誌とか)などが所狭しと並んでいました。面白かったので、その後休みの日に一度だけ自分でも行きました。笑
ミッションは3つ+α。
(1)5歳以下の子どもの死亡率で最も高い地域を特定する
(2)5歳以下の子どもの死亡率で最も多い死因は何か特定する
(3)成人識字率の最も低い地域を特定する
(4)現地地図などの他、使えそうなデータは片っ端からコピる
その日は日差しが強い日で、図書館までの緑が眩しい公園で子どもたちが遊んでいたのを、『バングラの子どもたちもここで一緒に遊べたら面白いなー』なんてことを思いながら通り過ぎたことを思い出します。
こうしてデータを集めてみた結果、バングラデシュにあるJamalpur(ジャマルプール)という地域の数字が目立ちました。地図に目を落としてみると、Jamuna River(ジョムナ川)というチベットからの雪解け水とインドからのガンジス川が合流する河川が縦断している地域でした。
そうした事実をもとに、『大河によって分断された地域』、『数年に一度起こる大洪水』といった特殊性がバングラデシュの中で突出した数字につながっているのではないか、と仮説を立てました。
これまで自分が関わったプロジェクトは、誰かが始めていたプロジェクトにたまたま出会い、それを応援するかたちでした。でも、これではじめて自分(たち)が『ここかもしれない』と仮設を立てたわけです。現地に行くよりも誰かに出会うよりも前に。その時には、その判断が正しいか間違っているかなんてもちろんわかりません。でも何と言うか、『そんなもん行ってみなけりゃわからない』という気持ちがふつふつと沸いてきて不思議な気持ちでした。
これは僕個人にとってはとても大きな体験でした。
でも、『ここかもしれない』と仮説を立ててみても、誰も知っている人もいなければ、どんな土地なのかも分かりません。
さぁ、冒険のはじまりです。笑
次回に続きます。では、またね。
こんにちは、共同代表の大野です。
昨夜のミーティングで、『ブログ書こうよ』となりまして、今日から少しずつ、マイペース(アワペース)で書いてみようかと思います。start to [ blog ] って感じですかね。
僕らstart to [ ] は、バングラデシュの子どもたちが『夢を持って何でもはじめることができること』を目指して、まずはバングラデシュのナングラ村でその環境づくりのお手伝いをしています。それと同時に、『何かはじめたい』とうずうずしている日本の若者(大学生でも社会人でも)の背中を押してみる、という活動もしています。
日本での活動の一環として、これまでいろんな方をゲストにお呼びして『どうしたら自分ではじめることができるのだろう?』ということをシェアしてもらいました。これはインタビュアーの僕らにとっても非常にいい経験で、かものはしプロジェクトの村田さんや、カタリバの今村君など、本当に素敵な話を聞かせてくれました。
でも、世の中から広く認知されるくらい大活躍している人の話って、ちょっと『雲の上』的になってしまいがちで、多少神がかって見えてしまうことが往々にしてあります。
だから、無名の僕らが、もう少し自分たちのことを話した方が親近感沸くかもね、「あいつらでできるなら、俺でもできるかもしれない!」と思えるかもね、という仮説を立てて、僕らのはじまりの話をしてみようかな、と思いました。気まぐれと言えば気まぐれかもしれませんが、誰かの勇気の源になれることを信じて、僕らstart to [ ] がどのようにしてはじまったかをお話しできればと思います。
普通の人たちの、ちょっと変わった普通の物語、はじまりはじまり?。
***
今でも最初に思い出すのは、青山通りで共同代表の内山に声をかけられたシーン。
共通の友人の結婚式に向かう途中でした。
僕は、当時バングラデシュで別のNGO活動を持っていたのだけど、政治的なイザコザに巻き込まれ、途方に暮れているところでした。と同時に、資金も情熱もあるのに活動できない状況に憤慨し、最終的には飽き飽きし、『もういいや、自分でもう一回何かをはじめよう』と思っていた矢先でした。
一方、内山の方は政府組織で働き、生業として夢であった海外支援活動をはじめたものの、彼自身もまた「終わりの見えなさ」を実感し、仕事を辞め、そしてライフワークとして『何か自分ではじめたい』と思っていた矢先でした。
そんな彼に、会場に向かう途中に呼び止められ、歩きながらお互いの状況を話し、『世界の子どもたちの死因の大部分を占めている水の問題』の話題になり、『バングラデシュはお互いの知り合いも多い』ことを共有し、最終的には『いっちょやってみるか』となりました。
まぁでも、その時は世の中によくある『今度飲みいこ』ってくらいの約束でした。
約束はしてみたものの、本当に何ができるかさっぱりわからなかったし、『どうにかなる』なんて微塵も思わなかったけど、今になって思えば、悶々鬱々とした時期を一刻も早く打破したい!という思いの方が強かったのかもしれない。でも本当にきっかけなんて仰々しいものじゃなくてよくて、適当なものでもいいんだよね。不思議なんだけど。
その後、彼と僕とで渋谷のジョナサンで打ち合わせをし、『コンセプトを固める前に仲間を』ということになり、同じく共同代表の関本と、高原に声をかけることにしました。
このあたりの僕の思考は、ほとんどドラクエで、それぞれに修行してきた内山と僕が集まり、我々に欠けているピースを思い浮かべて、「よし、やっぱり魔法使いだな」みたいな。そんな感じで関本と高原を招集しました。笑
関本は、ミャンマーでモバイルクリニックに従事したこともある看護師で、彼女の医療に対する情熱と知識とはいつかコラボしたいと思ってましたし、高原は、日本の若者をバングラデシュに連れ出し、キャンプを運営するような豪傑で、彼とも別のところでコラボしたことはあったものの、バングラデシュのフィールドであれば、彼とのコラボは欠かせないという思いでした。
でも、まだ『バングラデシュのこの村』ということも決まっていなかったし、『それをどうやって決めんの?』という想いや、『そもそも本当に水の問題がやりたかったんだっけ? 僕らより優秀なプレーヤーがいるのに?』という想いもありました。不安だらけだったけど、だからこそ動いてみよう、となりました。不安は実践でしか解消できないのかもしれません。
内山は、いつもはひどく沈着冷静なのだけど、こういう時に急に子どもっぽく『まぁほら、ひとまずやってみようよ!』となるところが魅力で、行動派(思考派ではない)の僕はいつもの通り、『よっしゃ出番きた!』なーんていう風に、最初のアクションに踏み出すことに。
この頃は、まだ名前もなくて(実は僕には当初からアイディアはあったのだけど、のちに伝説的にボツになる)、でもなんと言うか、ワクワクする気持ちは常にありました。はじまる予感やワクワクが原動力になるというのは本当で、とくにモノゴトのはじまりの時には、大いにその感じに従ってしまっていいんじゃないかと思うわけです。
どうやって支援地域を決めたのか、どうやって支援地域で狙い通り活動をはじめられたのか、そのあたりはまた次回書きますね。
では、またね。